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人を裁くのか自分が問われるのか [雑記]

裁判員制度があと一年でスタートするけれど、これでどこまで裁判が公平な目線でみられるようになるのかわからない。裁判官3人と裁判員6人の合議で有罪か無罪か、そして判決として刑の確定もしなくてはならない。

問題はいろいろとある。まず裁判員の選ばれ方だが、各選挙管理委員会からくじで選ばれた裁判員候補者に調査票が送られて客観的な辞退理由がなければ登録され、その中からまたくじ引きで1事件あたり50人から100人が選ばれる。そこで呼び出し状が送られて、辞退理由がなければ行かなくてはならない。さらにそこから裁判長が不公平な裁判をするおそれの有無と事態希望の有無、理由を聞いて裁判員を決定する。まあこの流れのなかで、果たしてどのくらいの割合で裁判員になるのかと言うことだが、裁判員を選ぶのに最終的には裁判長の選任だから、裁判長の管理しやすそうな人が選ばれる可能性は高いと思うが、それは不公平と言うのが何が基準になるのかわからないからで、それは結局裁判長の私権だからだ。

そして審理が始まり、証拠の確認をしてどんな罪になるのかを確認して全員の評価が一致しなければ多数決で決まる。ここで一番発言権を持つのが裁判官たちであり、余ほどの問題と知識がなければ裁判官の思う方向に判決は誘導されていくだろう。

その時に、知らない人間に対して死刑を判決できるのかどうかが一番問われるところではないだろうか。相当に極悪非道なことでなければ死刑は判決として出にくくなる。そこで裁判員の人生観が問われることになるのだ。人を裁くと同時に自分の人生観や思想がそこで問われることになると思うのだが、果たしてどうなのだろうか。

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